『愛について語るときにイケダが語ること』〜身体からの離脱と重さの所有〜【映画レビュー】

身体を放棄しながら、痛みを味わうことはできるのか。
「人に愛してるって言ったことある?」
映画の中で、イケダさんが女の子に問いかける。
舞台はお膳立てされた作り物で、女の子は雇われた俳優さんだ。
その問いかけだけが、虚実被膜に浮かぶただ一つの奇妙な本物だった。
『愛について語るときにイケダが語ること』(2020年 監督:池田英彦)
この映画を知ったのは、twitterに流れてきたプロデューサーの佐々木誠さんのツイートを目にしたことによる。
興味が湧いてちょっとだけ検索をかけると、スキルス性胃がんステージ4を宣告された軟骨四肢無形成症の男性が、自分の最期の時をセックスに費やす様子を撮影したドキュメンタリーだとわかった。
主演で監督のイケダさんはすでに亡くなっていることもわかり、観に行くことを躊躇した。それは知らない誰かの葬儀に参列していいのか悩むような厳粛みを帯びた迷いだった。
最終的に行くことを決めたのは、別の用事が入り、吉祥寺近くを通るというきっかけがあったからだ。私たちの日常は死よりも優先されるものでいっぱいだ。
軟骨四肢無形成症のイケダさん
この映画は、イケダさんの胃がんの転移がわかった頃から始まる。
検査を待つイケダさんは、映像の中で淡々と自分のおかれた状況を語る。検査で穴のあいた体を無邪気に鏡に写して、「結局検査はできなかったから、この穴は無駄だったね」などと、他人事のように説明する。
まるで壊れた傘の話でもするような気軽さで、観ているこっちがそわそわしてしまう。
ガンで細くなっていく腕を見る時もそう。まるで他人の腕を見ているみたいな表情をする。
「細くなっちゃったよね」
「歩き方もドナルドダックみたいなんだよ」
ネタバレしてしまえば、この淡々とした語り口は、本当に本当の最後の時までずっと変わらない。そこが、この映画の悲しくて爽やかな印象を際立たせている。
でも、自分の身体にガンが見つかり、穴があいて、痩せて、衰えていくとき、人ってこんなに淡々と語れるものなのだろうか。
私はまだ、死にゆく人につきそった経験がないからわからないし、これは演出なのかもしれないけれど、58分間の中で感じたイケダさんの身体感覚は私とはどこかしら違うと思った。
もしかしたら彼は、ガンになるもっとずっと前から、自身の体とそういう風に付き合ってきたのではないか。
割り当てられた身体への諦め
イケダさんが患う軟骨四肢無形症は現代の医療をもってしても、治療することができない難病だ。
感傷的な視線を封じてすら、それを抱えて行きていくのが物理的にも精神的にも大変なことは明らかだ。
アパートの階段も、キッチンも、全部彼には大きすぎる。不思議な国のアリスは夢から覚めたけれど、彼にとって、悪夢はずっと続く現実なのだ。
この映画は、障害に焦点を当てているわけではないから、彼が自分の障害をどう考えているか語る場面は多くはない。
それでも気になったのは、彼がぽつりと言った「もう、どうとも思ってないけどね」というセリフだ。
それは、軟骨四肢無形症として生きていくための最善解として、彼が40年間かけて見出したスタンスだったのだろう。
どうとも思わないということ。
それは、身体を諦め、手放すということではないか。身体からの離脱ではないか。
もちろんこれは私のただの勝手な想像であり、虚実皮膜の一つだ。
でも、そこには何かしらの構造をもった物語が浮かび上がるゆえ、見えないふりができなかった。
イケダさんとセックス、その痛み
一方、イケダさんが一番イキイキしているのは、セックスや女の子について話すときだ。穏やかな笑顔を浮かべて、女の子とデートがしたいんだよね、と語る。よくあるデートだよ、とニコニコする。あるいはグラビアをみて、いいね〜、と微笑む。
セックスしている最中も楽しそうだ。特に印象的だったのは、ラブホテルで女の子とディープキスをしている場面。
イケダさんはぎゅっと目を閉じて、恍惚としているというよりは、その感触をじっくりと味わっているようだった。まるで、生きていることそのものを味わっているように。
それがシンクロする場面がもう一つある。
映画終盤の病室で、目の痛みを訴える場面だ。
「新しい痛み」と彼は言った。目を閉じ、じっと痛みに心を凝らす様をみて、残酷に聞こえるかもしれないが、私には彼がそれを味わっているようにも見えた。
ちょっと唐突な話になってしまうかもしれないけれど、身体を手放して生きるとした場合、頼れるものとして浮上するのは「感覚」ではないか。
そして快感や痛みを伴うセックスこそ、身体から離脱して生きる実感をくれるものなのではないかと私は思う。
もちろん、セックスは身体性の高い行為だ。
でもその向こう側には、身体性の失われる世界があると思う。
セックスするのは確かに私たちの身体であるけれども、身体自体がセックスするわけではないからだ。
私たちがセックスに求めるのは、その先にある快感や、心の触れ合いや、究極的には人と人との繋がりだと思う。
ゆえにセックス空間では、身体はただの道具、わずかな接触点でもある。身体をこすりあわせるほど、感覚は増大し、身体の意味は限りなく小さくなり、最終的には人間同士の感覚のやりとりだけが、そこに残る。
映画の中で、イケダさんが初体験について語る場面がある。地元だと恥ずかしいから、はるばる名古屋の風俗まで行ったという、ちょっと微笑ましい話だ。
その時、彼は風俗嬢に、自分の身体について受け入れてもらえるか尋ねた。すると彼女はこう言った。「大丈夫だよ、だって同じ人間じゃん」
そうだ、セックスする時に大事なのは、究極的には、同じ人間かどうかだったりする。
イケダさんはこの言葉にほっとしたと語った。それは彼が身体から抜け出せる方法を見つけた瞬間だったかもしれない。
彼はセックスの中で身体から解き放たれることで、一人の人間として、自由に生きられたのではないだろうか。
愛とは何か
身体からは離脱した。安心できる空間も見つけた。
それでも最後に一つだけ、イケダさんが向き合えなかったものだけが残る。
愛だ。
彼が女の子に聞いた「愛してるって言ったことがある?」という質問。女の子はないと答え、イケダさんも自分もないと言った。好きだとはいうけど、愛してるとは言ったことがないと。少し寂しそうで真剣だった。
愛してるという言葉には重みがある。それは気のせいではないだろう。
好き、という言葉は軽やかだけれど、愛は重たい。肩にずっしりとのし掛かってくるような重さがある。責任とか、なんかそういう重さだ。
そういう意味で、「愛」は「好き」よりずっと身体性を獲得していると言っていいんじゃないだろうか。
ゆえに、身体からすでに離脱していたイケダさんにそれが持てなかったのは、必然だったのではないかと私は思う。愛を受け入れるには、彼は再び、身体を向き合わなければならなかったろう。それは苦しみと表裏一体だ。
映画中、彼は中出しについて「気持ちいいから好き」と言っていた。でも妊娠させることや父親になることについては、ちょこっと語ってはいるが深刻ではない。それを非難する気はこの場合、ないんだけど、そこからも垣間見えるのが、重さからの回避だ。
女の子からの告白企画についても言える。彼は、その告白を断ってしまう。彼がやりたいと言って企画されたことだったのに、断って、異質な予定不調和を引き起こす。
でも、それこそが、彼の答えだったのだろう。
愛を受け入れることは、彼にとって身体を受け入れること。重さを引き受けて歩くことではなかったか。彼はそれを回避した。最後までそれに憧れながら、圧倒的軽やかさで、人生を締めくくったのだ。
この映画は、イケダさんの自伝的映画だ。生涯、身軽な身体で生きた彼は、私たちに語りかける。
「重い身体を持っているなら、愛だって受け入れられるよね?」
あの魅力的な笑顔で。そうだろうか。私たちの重たい身体にも、愛は重すぎるかもしれない。
その時、愛って、じゃあ、いるんだろうか。本当に必要なのは、身体? 自由さ? 気持ち良さ? 一体なんだろうね、と、イケダさんと話してみたかったなと思った。

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もといの日記:12月9日『愛について語るとき、イケダの語ること』を視聴 @吉祥寺アップリンク
吉祥寺アップリンクで『愛について語るとき、イケダの語ること』を視聴。後半はもうやっぱり泣いちゃいました。イケダさん、素敵でした。まさに私の年齢の時に亡くなっているので、身につまされる思い。もしも大事な人が、癌に侵されたら、みたいな想像も勝手にわいてきて、困ってしまいました。
上映後、舞台挨拶があり、プロデューサーの真野勝成さん、佐々木誠さん、出演者の毛利悟巳さんが登壇。主演で監督の池田英彦さんとの思い出などを語ってくださいました。
池田さんと20年来の友人である真野さんのお話から、映画中のイケダさんが、素のままの飾らない人だったのだなということが伺えて、ますます心を打たれる思い。ちょっとお通夜に参列した気分で、ますます悲しくしんみりしました。それでも、映画を観たあとだから、彼への思い出を共有できる気がして、劇場にいる人たちとも心が繋がるような温かさを感じるというか。ちょっと不思議な体験でした。
一方、佐々木さんは、敏腕プロデューサーという感じの方。60時間もあったというイケダさんの映像を、58分にまとめたというのがすごい。半分はハメドリだったとか。エロティックすぎもせず、感傷的すぎることもないさっぱりとした爽やかな映画になっていたのは、きっと佐々木さんの腕なのだろうと感じました。
パンフレットを購入すると、ちょっとお話ができたので、思い切って「イケダさんが生きてたら、もっとハメ撮りを入れたいって言ったと思いますか?」とちょっと失礼な質問をしてみたら、「いや、それはないと思いますね」とはっきりおっしゃっていて、彼の物語に対する責任みたいなものを感じ、感動しました。パンフレットを読んで、他の佐々木さんが撮影された映画にも興味が出たので、今度みてみようと思いたつなど。
ドキュメンタリー映画は久々でしたけど、観にいってとてもよかったなあ。来年はもっと劇場に足をはこびましょう、とか毎年言っている気はします。
そのあと、友人中川の彼女と対面するという極私的な用事があり、紹介もそこそこにボードゲームを三時間やり(ウボンゴができなすぎて、頭の悪さが露呈し、屈辱を味わった)、日高屋でビールを一杯だけ飲んで帰宅。帰ってから中川の彼女の名前をずっと間違えて呼んでいたことがわかり、さらに頭の悪さが露呈した一日。中川がフラれたら多分私のせいなんだろうなあ、もちろん、責任はとりませんけど。

プロデューサーと出演者の方からサインをもらえました。