韓国映画『オアシス』に観る寓話とメタ構造【映画レビュー:あらすじ、ネタバレあり】

寓話は現実に殺されるのか。
映画オタク(というよりは多分アイドルオタク)のムラタさんから勧められた韓国映画『オアシス』を観る。
ムラタさんが凄いというからには凄いのだろうなと思っていたが、予想以上に凄かった。
とりあえず、どんでん返しがある映画は面白い。
信じていた世界がひっくり返される驚き、価値観の転換はちょっとしたカタルシスを引き起こす。私たちはそういう小さなエウレカが大好きだ。
しかし。
この映画でどんでん返しが起きる時、そこに現れる新しい世界観は、できれば気づきたくなかった暗いエウレカを与えてくれる。
すごく面白くて、切なくて、素晴らしい映画なのだけれど、その気づきは、映画を見た後のリアル世界の色合いまでも変えてしまうようだった。
映画基本情報
『オアシス』韓国:2002年 132分 原題:오아시스
豆腐を丸かじりする男、ジョンドゥ
『オアシス』の主人公ジョンドゥはやばいやつだ。映画の冒頭、しばらくはジョンドゥの行き当たりばったりの行動を追う。
バスを待ってる男性にしつこくタバコをねだる、他人のマンションの階上から唾を吐く、なれなれしく女子高生に話しかける….特に印象的なのは、街角での豆腐の丸かじりだ。
ちょっとびっくりして調べたら、韓国では出所した人間は「白い物」を食べるという習慣があるらしい(確かに劇中では牛乳も飲んでいた)。
とは言っても、通常ならお皿にのせて食べるものなわけで、そのシーンも、かなり強烈にジョンドゥの性格を表している。
最終的には無銭飲食で捕まってしまうジョンドゥ。ここで、彼が三度も逮捕され、出所したばかりの前科者であることが判明する。思考能力に問題を抱える社会からのはみだし者、ジョンドゥ。私たちは彼を理解する。
脳性麻痺の女性、コンジュ
そんなジョンドゥが出会うのがコンジュという女性だ。脳性麻痺で歩けないし話せない彼女は、古いアパートで一人暮らしを強いられている。彼女の父親は交通事故で亡くなっている。ジョンドゥが轢き殺したからだ。
出所したジョンドゥはお詫びに行き、彼女と出会う。彼女に興味を持つジョンドゥ。
何度もアパートを訪れるうちに、部屋に入る方法を見つけるジョンドゥ。
あやうい雰囲気が漂う。予想通り、ジョンドゥは勝手に鍵をあけ、むりやり欲望を遂げる。
死んだようになった彼女を見て動揺するジョンドゥ。
風呂場に引きずっていき、水をかけることで、コンジュは息を吹き返す。逃げるジョンドゥ。
はい。最悪な鬱展開。
このあと、障害者を襲う理性の欠如した暴力的な男が、破滅に向かって疾走していくのだろう、と私は思ったし、実際わざとミスリードさせていることが、あとあと分かる。
これは世界の表面のはなし。この事実の表層の裏で、もっと恐ろしく美しい話が進行しているのだ。
さて、まだ見ていない方はこのへんで引き返したほうがいい。
ここからは本編で見て、確かめてほしいからだ。思いもよらないラストに、きっと驚愕する。
もう観た方という方、ネタバレOKという方は、引き続きおつきあいください。
ジョンドゥとコンジュの恋愛寓話のはじまり
というわけで、普通に強盗、暴行案件で逮捕案件なのだけれど、ここからの展開がすごい。
コンジュは、暴行事件のあと、ジョンドゥに興味を抱いてしまうのだ。
自分のことを(暴行の最中に)綺麗だと言ってくれたジョンドゥが忘れられず、電話をかける。そして二人は恋人同士になる。
若干不可解だけれど、劇中から読み解けば、それは彼女の想像力によるものだ。
鏡に反射する光から見えないものを生み出して楽しむような豊かな想像力を持つコンジュは、暴行犯ジョンドゥにかすかな恋心を見出してしまうのだ。
もしくは年頃の彼女の性的な関心の高まりのせいかもしれない(介護人のセックスを垣間見る機会がある)。
ともかく、そうしたきっかけで、ジョンドゥとコンジュのイマジネーションはからみあい、やがて一つの純愛ファンタジーを描き出す。
障害のある女性と犯罪者、社会的な普通からははみ出した二人の世界観は奇妙に噛み合って、独特な恋愛フィールドを作り出す。
もちろん冷静に見るとこの状態は昇華、もしくはストックホルム症候群と言えるかもしれない。
しかし、すべての恋愛がストックホルム症候群、もしくは共有する恋愛ファンタジーではないとどうして言えるだろう。彼らの恋愛だって、はじまりがどうあれそれは恋愛だ。
そして、彼らの共有するファンタジーはとても美しい。浮世離れした二人は、損得なしでお互いを想い合う。「姫」「将軍」と呼び合うことで、子供同士のような、寓話のような恋愛がはじまる。
風に揺らめく木立が部屋のタペストリー「オアシス」に落とす影に怯えるコンジュに、ジョンドゥは魔法をかけてくれる。うっとりするコンジュ。その時、ジョンドゥは心から、お姫様のためのナイトなのだ。
この寓話的な美しさに落ちない女性はいないはず。結局、恋愛とは現実にいかに寓話的モチーフを持ち込めるかだと私は思う(持論です)。
寓話を殺すものはなにか
寓話の世界の二人は幸せだ。コンドゥが時折、寓話世界から抜け出してみせるシーンも印象的で切ない。
しかし、もし彼女が現実世界を生きていたら、多分ジョンドゥとは恋に落ちないかもな、という気もして、さらに切なくなる(ここはほんとに、泣きます)。
ちょっと話がそれるが、結局、私たちは持って生まれた身体という檻のなかでしか、恋愛はできないのではないかと思ったりもする。
折しも先日みた映画『愛について語る時、イケダが語ること』を思い出す。この映画の主人公もまた身体に障害があり、その障害が恋愛に影響を及ぼしていた。(過去記事はこちら)
しかし、障害があるからと言って恋愛ができないということはないのだ。
恋愛に不可欠なのは身体ではなく、想像力であり、他人を、自分を愛したいという欲望なのだということが、この映画からよくわかる。
しかし、そんな寓話的な恋愛は、現実世界には理解されない。二人の関係は他者が入り込んだ瞬間から、どんどん崩れていく。
二人だけの世界で完璧に成立していたものが、社会においては罪とみなされる。
罪から逃れるために必要だったもの
悲しい結末を迎える二人。
彼らの寓話が死んだのは、現実がそれを許さなかったからだ。
しかし、彼らの寓話が死なないという道もあった。
言葉があればだ。二人は物語を語ることができ、それは社会的な権利を得ることができただろう。
だけど、二人からはあらかじめ言葉が剥奪されていた。だからこそ、二人の恋愛は寓話になり得たという部分もある。
けれど、言葉がないということは、社会に対して自らの権利を主張できないということでもある。
実際、映画の中の二人からはあらゆる権利が奪われていたことがわかる。
逆に考えると、寓話が現実に受け入られるには「語られる」ことが必要なのだと思わざるを得ない。
「物語」として現実に組み込まれて、初めて寓話は現実の一部になるのだ。
現実は安心して「寓話」を受け入れることができる。
それは物語、つまり時間的にいえば「過去」だからなのかもしれない。
聖俗の配置、わたしたちは俗の中心へ向かうのか
ジョンドゥとコンジュはこの社会の辺縁に生きている。
生まれ、成長して、仕事をし、税金を納めて、問題を起こさないで死ぬというのが人間社会の基本的なルールだとすれば、ふたりともそこから外れて生きている。
ゆえに、基本的ルールを生きる「普通の人」からうとまれる。それは「聖」と「俗」の対比だ。
円の中心に行くにしたがって俗化する図式で表されるだろう。二人は円の縁か、ギリギリ外れたところにいる。
彼らは、そこの場所にいるからこそ、社会的なお荷物扱いされる。つまり「悪」とみなされる。
しかし、本当の悪とはなんだろう。彼らを差別し、退けているのは「俗」である。ルールを決めるのが「俗」である限り、彼らが悪になってしまうのは必然なのだ。
劇中、彼らに投げつけられる「常識」は、まさに俗の中心から辺縁に向かって投げられるイシツブテである。
それは、「悪」ではないのか。「俗」の中心に行くに従い、「聖」から離れるにしたがい、その対比に石を投げたくなるならば、差別をしたくなるならば、俗の中心には濃厚な「悪」が溜まっているのではないかと思う。
その「俗」の中心への動きを、私たちの社会では成長というのだろうか?
物語が進むにつれ、明らかになる「普通の人たち」が無意識にしている「差別」こそ、恐ろしいどんでん返しとなって、私たちに暗いユーリカを与えてくれるものである。
それでも寓話は死なない
ラスト、ジョンドゥの行動には、滂沱だったけど、お手紙でしめくくられているのもとても良かった。
寓話は、寓話だからこそ、とても強いのだというメッセージがこめられているようで、差別というものがあったとしても、それを越えてゆく魂の次元というものの存在を感じ、矮小な自分を恥じる想い。
寓話のように生きることは、魂の次元をあげることなのだ。
いやほんと、ちょっと、それは、本気ですごいなって映画だった。
ジョンドゥを演じるソル・ギョング、そしてユンジュを演じたムン・ソリ、どちらも最高の演技だったと思う。
監督のイ・チャンドンは天才としか言いようがない。「ペパーミント・キャンディ」も観てないので、観てみようと思った。こちらにもソル・ギョングが出ているとのこと。楽しみだ。